さて、パクリ曲書きとして有名な「菅野よう子」について書くとしよう。
まずはここを見て欲しい。パクリパクリと言うが、ここまでパクルってのも言いすぎだろう。
叩きたい奴がただ必死に叩いてるだけにしか思えない。
だが菅野のパクリは本当にある。
それは比較動画にでもあったように、
メロディ、フレーズ、歌詞、間などなど。
完全にパクリとしか思えないものばかりである。
上記に貼った記事のコメントに、菅野擁護者と、アンチ者がごろごろいるが、
作曲をかじってればとか、そりゃたくさん書けば似ちゃうよとかもうくだらん。
たくさん書けば似るなんてものが一番愚かだと思ったね。
武満徹が言っていた「作曲家は最初の聴衆」と。
意味は、作曲家はたくさんの曲を聴き、その曲の良い部分を吸収し、自分のスタイルを見つけるという事だ。
まぁあくまで私の解釈なのだが、作曲家なら最初の聴衆になるべきだ。
菅野が全部悪いとは言わない。
だが彼女も作曲家の端くれなのだから、最初の聴衆のはずだ。
その最初の聴衆のくせに、このパクリ量はなんだ?
コメントには「曲をフルで聴けば違いが分かる」
「同じ調性、同じ音で始まるから似てるように思える」などなど
低レベルなコメントがあるが、
確かにフルで聴けば違うだろう。そんなことチンパンでも分かる。
しかし同じ調性同じ音ってのがまずおかしい。
普通そんなことをするだろうか?
そしてその後も似たように続けるのもおかしすぎる。
オマージュと言う意見も飛び交うが、
確かに伊福部昭のゴジラのテーマは、モーリス・ラヴェルへのオマージュだし、
その弟子の芥川也寸志の交響曲一番はロシア純音楽だし。
しかも芥川自身、演奏会でそのことを話していたし(これは笑った)。
オマージュは決して悪いことではない。
自分はこの作曲家が好きだというのをあらわすのにもってこいだ。
だが過ぎてオマージュは身を滅ぼす。そうパクリになってしまう。
菅野がオマージュと今更公言しても、
過ぎたオマージュ=パクリとして批判されるだろう。
コメントにもあったが「作曲は大変な仕事」だとか。
確かに大変な仕事だろう。
だからと言ってパクルなど音楽への愚弄である。
作曲は大変だから何?
伊福部昭は映画音楽等々の仕事を寝る間を惜しんでやったのでだよ。
しかもそんな大変な事をしながら大管弦楽曲を書いた。
様は気の持ちよう。
いくら大変な仕事でも妥協しない心構えがあれば、素晴らしい音楽を生み出せる。
だからといって、過ぎたオマージュなどしてよいものか?
チンパンでも分かるよね?決してやってはいけない。
話がだんだんおかしくなったので最初に戻すと、
「作曲は最初の聴衆。
たくさんの曲を聴かなければいけない。
そしてたくさんの曲の良い部分を吸収し、
自分のスタイルを確立しなければいけない」
さて菅野は最初の聴衆だろうか?
否だ。
本当に最初の聴衆ならば、ここまで似たような曲は書かない。
コメントにもあったが、「快感フレーズは似てしまう」というのはおかしい。
7音+調性を巧く使えば、それこそ快感フレーズなど山のように作れる。
それこそが天才なのであり、それこそが本当の最初の聴衆である。
だが菅野はオマージュと一言も言わずここまで似てる曲を書いてる。
これをパクリと言わずなんという?
菅野は結局、最初の聴衆にもなれず、パクルことでしか金を稼げない。
生きてて楽しいか?
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